「遠州」の歴代宗家

f:id:ensyu0216:20190916132245g:plain

流祖 宗甫小堀遠州公

宗甫小堀遠州公は、茶人や造園家としてその名を残しています。しかし、単にそればかりではなく、文化万般に深い関心を示し、芸術、思想、政治など多方面にわたってその才能を発揮した人物です。茶の湯を古田織部に、和歌を冷泉為頼と木下長嘯に、書道を松花堂昭乗に学ぶなど、それぞれの道に通じた多彩な風流人でした。

特に、茶の湯においては、のちに茶道遠州流の祖と仰がれるように、その道を極め、徳川三代将軍家光公の指南役という名目で江戸城に迎えられています。その茶の風は、利休の佗茶より華美なところに特徴があり、当然、茶花においても遠州流の生花の特徴として伝えられる、華麗な要素をとり入れていたと思われます。「きれいさび」といわれたこの遠州公の芸術性をいけばなに生かし、その思想と美の心を現代に伝えているのが遠州の花道なのです。宗甫小堀遠州公を流祖と仰ぐ所以がここにあります。

初世 貞松斎一馬

初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州公より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名のったことで遠州流中興の祖とされ、「遠州」の始祖となったのです。

初世貞松斎米一馬が発展させた正風挿花は、花伝書『遠州流挿花独稽古』に以下のように記されています。

およそ、いけばなといへること、座上のかざり、花をいける本にして、さながら山野に生たる中にも面白みを工夫し、風情をつけて、詠深くいけるものから、いけばなという

正風は、いけ花の本情を忘れず、失はずして、しかもすがたに面白みをつけて、風情見所あるようにいけるを旨とする

その創意工夫にみちた芸風をうかがい知ることができます。

歴代の宗家(初世以降)

二世 貞松斎米一馬

本名・米沢貞太郎。初世の実子で、文政5年(1822)に若くして他界しました。そのほかの伝記は不明です。

三世 貞松斎米一馬

本名・園田正寛。文政9年(1812)江戸に生まれました。花道の師は初世米一馬で、明治3年(1870)、二世の死後長らく空位にあった宗家を継ぎ、以後明治29年(1896)に85歳で他界するまで、宗家として遠州の発展につくしました。

四世 貞松斎米一馬

本名・山岡林平。文政11年(1828)土佐藩士として生まれました。明治30年(1897)に宗家の座を継ぎましたが、わずか3年後の同33年(1900)に73歳で没しました。幕末から維新の動乱期に花道一筋に生きた人です。

五世 貞松斎米一馬

本名・園田清吉。三世の実子として、安政元年(1854)に江戸に生まれました。三世他界のときはまだ若輩であったため、宗家継承を辞退、四世死後、大正4年(1915)に宗家を継ぎますが、7年後の大正12年(1923)、関東大震災に遭遇、69歳で不慮の死をとげてしまいます。

六世 貞松斎米一馬

本名・芦田春寿。明治11年(1878)8月16日に現在の群馬県前橋市で医師桜井伝三の三男として生まれますが、母親は身体が弱く病床にありがちだったため、東京日暮里の祖父母のもとで育てられました。祖父宅の近くには初世貞松斎米一馬の菩提寺である径王寺があり、幼年のころよくその境内の華神塔のまわりで遊んだとのことでした。
六世がいけばなの道に入ったのは、幼年期に病弱であった春寿が、何年かののち群馬県伊香保に脚気療養に出かけ、保養のかたわら初世の孫弟子にあたる二世貞草斎一寿、貞照斎一果、貞泉斎一得らから正風の挿花の手ほどきを受けたことが直接の契機でした。以後、遠州流花道を志すことになったのです。
そして、明治29年(1896)1月、晟照斎一寿を号することを許され、さらに同年の秋には、土佐の貞春斎一英の四世宗家継承にともない、その前号「一英」を流内の人々の希望を受けて襲名することになりました。
明治31年(1898)には、京都訪問を果しましたが、途中病に倒れ、その後しばらく葉山の長者園で静養することになります。その間、東京小石川の四世宅を訪ね、花道について会話を重ねたといいますが、これがもとで 初世米一馬などの歌を集めた『遠州流挿花前百首』『遠州流挿花後百首』を編しています。

f:id:ensyu0216:20190916132354j:plain
六世貞松斎米一馬筆『遠州流挿花三体之巻』『華包』『遠州流挿花前百首』『遠州流挿花後百首』

明治33年(1900)、結婚により元禄以前にはじまって今日まで代を重ねた、洛中の名家芦田家に入籍します。この結婚による心身の安定が、のちに流の内外における数々の業績につながり、宗家継承の端緒を開くことになったのです。
大正13年(1924)、前年の関東大震災で急逝した五世貞松斎の意思を継ぎ、全国門人の擁立によって宗家の座を継承しました。爾来、昭和41年(1966)2月、89歳で他界するまで、40数年間にわたって宗家として遠州の発展に努めたのです。
六世はまた、当時排他的な傾向の強かった諸流派の協調を説き、「京都華道連合」を結成し、京都においてはじめて諸流派の合同華展を開催しました。

正風挿花の研究については、明治41年(1908)に『華包』と『遠州流挿花三体之巻』などの著書をあらわし、造詣の深さを世に示しました。
そのほか、京都市との共催で毎年行われる「華道京展」の運営委員を長く勤めるなど、流の内外にわたって活動し、花道の発展に力をつくしたのです。

「遠州」の歴史

小堀遠州の芸風を今に伝える

流祖・小掘遠州は、茶の湯を古田織部に学びました。のちに茶道遠州流の祖と仰がれ、徳川三代将軍・家光の師範という名目で江戸城に迎えられています。もちろん、利休の佗茶よりも華美な茶の湯がその風だったといえましょう。
小堀遠州は、和歌や書道にも通じ、造営奉行としての建築と庭造りでも有名ですが、花も茶花としては華麗なものをいれていたと思われます。この小堀遠州の思想と美の心をいけばなによって伝えているのが「遠州正風」の華道なのです。

江戸に流行する

この遠州の花の思想と花姿は、春秋軒一葉(明和年間)によって初期の内容が整えられました。さらに初世貞松斎米一馬(寛政年間)の出現により、正風遠州流として完成されます。
当時の公家・武家はもとより、一般の江戸庶民にうけいれられ、大いに流行しました。その様子は当時人気を博していた浮世絵の流行とちょうど軌を一にしていました。このことは、『嬉遊笑覧』という書物に、「江戸に近頃専ら行わる遠州流、石州流、宏道流などは何れといえども大方は遠州流と異らず」と書かれていることでもわかりますが、このように、江戸と関東を中心に遠州の花が全国にひろがったのです。文政年間には花配りの改良によって曲線美がますます強調されることになりました。

f:id:ensyu0216:20190916133515j:plain

『正風挿花岸松』『古今切紙口傅』『挿花千歳松』などの伝書

初世一馬の業績

豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花を両親のようにして生まれた庶民の花で、複雑になった立華の役枝を筒素化するとともに、抛入花に格をあたえる形でそれは成立します。天、地、人の役枝を構成の基準にしたシンプルなスタイルの花ですが、天、地、人は同時に人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。

この文字どおり花道と呼ぶにふさわしい生花の先覚者が、小掘遠州の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名乗ったことで遠州流中興の祖とされ、現在の「遠州正風」の始祖となったのです。

岸松斎高森一貞に師事した初世米一馬は、一貞師と協力研鑽して流祖の遺教遺訓を守り、昼夜をわかたず寝食を忘れて草木の強弱と値物の保養を研究し、ついに正気の発源する風姿の高雅な正風挿花の理念と規矩を大成します。これが遠州流正風挿花で、人呼んで正風遠州流といいます。

一馬は世の青少年の思想を善導し、一瓶挿花の枝をもって各自天稟の芸術的真心を涵養、向上させるために東奔西走し、住居を転々とすること36度に及びました。「六六墅人」と号したのはこれにちなむものです。一馬はまた、焦門の流れをくむ俳句をよくし、二世楼川を名のり、書家としては若くして渓竜、老いて乾竜と号しています。

初世は数多くの伝書や挿花図を、すでに江戸の文化文政期に出版されたり、自筆本として遺されています。『正風挿花墨江巻』をはじめとする秘伝書類は、当時にあっては他流にも大きな影響をおよぼしたといわれていますが、それから150年以上も隔った今日においても、いけばなの本質を見つめるために、ますます必要なものという感を深くしています。その意味は、正風遠州流の生花は、花形が完成した時に、すでに自然を超えた抽象的な花として、また精神性に富んだ花として高い評価を受けたわけですが、現代の感覚を通して見た場合でも、その評価は何ら変わるものではありません。日本のいけばなの歴史を通じて、様々な変遷や変革がありましたが、初世の伝書は、いつの時代にも即応するばかりでなく、つねに時代の先端を行くような新しさを含んでいるのではないでしょうか。

f:id:ensyu0216:20190916133319j:plain

『挿花松之翠』『挿花衣之香』などの正風遠州流の伝書

The floral art of Japan

いわゆる「お雇い外国人」として明治政府が招聘した建築家のひとりにイギリス人のジョサイア・コンドルがいます。コンドルは、工部大学校の建築学教授として、東京駅を設計した辰野金吾や京都国立博物館を設計した片山東熊などを育て、明治16年(1883)には「鹿鳴館」を建築した人物です。
ジョサイア・コンドルは明治28年(1891)、自身の著書『the Flowersl  of Japan And The Art of Floral Arrangement(邦訳『美しい日本のいけばな』)』において「いけばな」を紹介しています。
外国人たちが、日本のいけばなに強い関心を持ったのは、華麗で曲の強い遠州流の花形に対してでした。
当時、日本から海外へと流出をした浮世絵版画は、のちに西欧印象派の画家たちへ影響を与えます。遠州流の生花は、これら流出した浮世絵を通じて西欧のフラワーアレンジメントに影響を与えることになります。

浮世絵版画に描かれた日本のいけばなは、ほとんど遠州流の生花であって、美しい曲線によって構成されるライン・アレンジメントの形は、フラワーアレンジメントに新しい線による構成の美しさを表出する方法を教えることともなったのです。

こうした外国人による評価は、生花の持つ芸術性を、形から始めてその精神性をも含めて、日本人たちに再確認をさせる契機を与えることにもなりました。

明治23年(1890)に刊行された東洲勝月の『教育女礼式』という錦絵に描かれているいけばなは、遠州流の生花でした。また、明治27年(1894)に刊行された『明治節用大全』には、「古今遊芸指南」の第3章に「挿花」とあり、その沿革が述べられています。その挿花の指導法は遠州流のものです。
さらに、明治27年(1894)に刊行された『風俗画報』所載の挿花の紹介は、花之本宗寿によるものであり、これもまた<遠州流の師匠の手に成るものでした。

f:id:ensyu0216:20190905143734j:plain

コンドル『THE FLORAL ART OF JAPAN』1899年

四百有余年の伝統を生かす現代

遠州は代を数えること十四代、七代の貞松斎米一馬をはさんで今まで四百有余年の年月をつみ重ねています。始祖貞松斎の遣訓に、「ことは古人にならいて、技は当時の風体にすべし」という言葉があります。この教えをそれぞれ守りつづけて今日まで流の発展につくしてきたのです。その間、明治維新や第二次世界大戦後の混乱した人心の中で、花を通じて世相の安定に専念し、日々変化する科学文明に対処しながら、生活の中にとけこむいけばなの研究にはげんできたのです。曲線の美しい生花はもとより、生立華、盛花、投入花、現代花、新生花、正風花、ファッションいけばなポピンズ、さらに二十一世紀の花、現代花21など、新しい時代の精神をとりいれて、それぞれの進歩のための研究をつづけているのです。

年表

日本の「いけばな」と「遠州」

草木の生と死

花を愛する心は、世界のどこの人々にも共通しています。野辺に咲く名も知れない草木にいい知れない心のやすらぎを感じたり、あるときはそれを折りとり、持ちかえって室内に飾ったりします。花や草木に対して私たちがこのような愛着心をいだくのは、それらが単に美しいからだけではありません。美しいことももちろん関係していますが、それが人間と同じような生命を持っていて、季節という設定の中で盛衰、生死をくりかえすことが切実に共感されるから、花の美しさ、草木のみずみずしさが、より強く私たちをひきつけるのです。

いけばなが、はじめ「供花」という形で人間生活と結びついたのも、この生死に対する共感が根底にあったからです。人間にとってさけることのできない死をとおして、あるいはすくなくとも死との関連によって私たちは神仏を具体的に認識します。その神仏と死を語るとき、あるいは死との関連で生を語るとき、同じような生死の条理におかれている自然の草木を媒介にしたほうが、私たち人間と神仏とのコミュニケーションが容易だったのです。これが「供花」です。生も死もよくわきまえている花(草木)を供えたり献じたりすることによって、私たち人間は神仏と対話をこころみてきたのです。

f:id:ensyu0216:20190911204348j:plain

『鳥獣人物戯画』に描かれる供花の様子

『鳥獣人物戯画』は、平安時代後期に成立したとされる絵巻物です。桃底の花瓶に蓮華を立て、僧形の猿が常緑樹の枝を手に、芭蕉の光背を持つ蛙の仏に供養している「供花」の様子が描かれています。

座敷飾りの花

このように、いけばなの発生はまず宗教的なものから出発しましたが、やがて室町時代にはいり、供花は座敷飾りの花としてようやく宗教から脱却することになったのです。それは、寝殿造りというそれまでの建築様式が武家造りを経て書院造りに変化したことにも起因していました。書院造りというのは一隅に書院、押板(後世の床の間)、棚をもうけた座敷のことで、儀式や賓客との応接に使用しました。この押板の上に、いけばなの最初の様式といわれる立花が飾られたのです。

この室町時代は、花をはじめ能、庭園、茶の湯などの、いわゆる日本的な芸能がさかんに興った時代です。町衆といわれた商人たちも、武家の生活を見習ってこのような芸能をさかんにたしなみました。能阿弥、立阿弥、珠光といった芸術家の輩出したのもこの時代です。

f:id:ensyu0216:20190905143339j:plain

「生花彩色花形図」(貞松斎米一馬選『挿花衣之香』享和元年(1801)より)

簡素と豪華

一方、座敷の書院や棚にも抛入花、砂物などという花が飾られ、特に抛人花は安土桃山時代にはいっ茶の湯の花にとりいれられて簡素な美しさを発揮しました。一般に「茶花」といわれている花がこれです。立花が次第に豪華に発展し、後に「立華」と呼ばれる華麗な様式を確立したことから、簡素と豪華という対照的な二つの流れが、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてのいけばなを特徴づけたことが知られるのです。

生花の誕生

豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花の影響を受け、当時の町人文化を反映して生まれた新しい様式のいけばなです。豪華で複雑な立華の役枝を簡略化し、加えて簡素な抛入花に格をあたえる形で、その様式が完成されました。
庶民の芸術といわれるように、この生花の花形は儒教の理念に基づく「天、地、人」という役枝を構成の基準にした非常にシンプルなスタイルなものでした。それだけにこの「天、地、人」は美を表す基準であったと同時に、人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。
生花に対してこのような考え方が行われたことにより、いけばなは花道と呼ぶにふさわしい芸域に達したと言えましょう。

この生花の先覚者が、宗甫小掘遠州公の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

f:id:ensyu0216:20190905143426j:plain

春秋軒一葉「水仙の生花」(百花園主人編『瓶花群載』明和7年(1770)より)

『瓶花群載』は当時の各流派の代表的ないけばな図が載せられていて、いわば、当時の作品集でもありました。すでに明和3年の「当世垣のぞき」には、遠州流の名前があげられています。