「遠州」の花形②-生立華

生立華は初期の頃、神仏への献花・供華としての性格を残していました。そのため、一枝一葉に祈りをこめて生けられたと考えられます。

生立華の構造は、大自然の山嶽美を理想化したものです。つまりその姿は、大自然が遠く近くに展開する景をさながら連想させるものです。

生立華は立てる花

生花や盛花は、「いける」と言い、決して生花を「立てる」とは言いません。つまり、生立華は立てることを原則とし、大自然の美とその心を表現しようとする花なのです。

遠州のいけばなの根本

遠州の生花の流麗な美しさは、流内外に知れ渡っていますが、その生花は、生立華から生まれ、生花の天・地・人の三枝の基本概念が盛花、投入花の様式を生んだのです。

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「遠州」の花形①-生花

一円相の考え方やあり方は、遠州の実際の生花に、どのような形で具体的にあらわされているのでしょうか。遠州の書に、「当流の花は一体をまどかなる姿にいけなすべしといえるには、一円相は陽なり、半月は陰なり、この二つを合わせて陰陽合体の花というなり。されども真(中心になる枝)をたてるに円相の内より少しのびて良し、みつればかくる習、まどかなるはかくるに早き理ありて陰に近き故に真を少しのばしていくる、これ格を守りて格をはずすという」とあります。つまり、陰陽を合わせてまどかなる姿にいけるわけですが、円相を左右にわけて考えた場合、花姿の「外」に形どられる「半月」の陽と、花姿の「内」に形づくられる「空間」の陰とを合わせて、まどかなる円形の姿が瓶上にあらわされるのです。花姿はこのように半月形にいけられますが、その半月はあくまでも満月(円相)を想定した半月の形であって、残りの空間を構成の要素に含めていけられるのです。このとき、満つれば欠くる習のように、まどかにすぎてもよくないので、中心の枝(真)を陰陽合体の円相からすこし伸ばして格をはずすというのです。円相は、理念としては、「円にあらず方にあら」ざるものですが、生花の具体的な形態としては、中心になる枝をめぐってまどかなる形をとり、それを円相から外に伸ばして「不円不方」を象徴することになるのです。

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杜若の株分け挿し

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水仙を三段にいける

「遠州」の特徴⑤-華神祭

初世貞松斎米一馬が正風挿花を大成したのは、江戸時代の後期、寛政十年頃であって、以来随時随所に花筵をひらくとともに、華道感謝のために 「華神祭」を執行し、そのときの図編『衣之香』を発行しています。その巻頭には、始祖貞松斎の指導者である各師匠の序文および図絵が自序とともに記され、山本北山先生の序文中にも、「華神を祭る」という句が記されています。そして、この「華神祭」はその後の歴代宗家によって毎年執行しつづけられているのです。

華神祭のようす
宗家による献華(2019年)

「遠州」の特徴④-華包

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華包(六世貞松齋一馬(芦田春壽)『華包』より)

遠州正風挿花の基本花枝から、一つを取り出しその枝の持つ特徴を美しい曲線美をつくりだす花形です。

華包とは

江戸時代(1780年代)、初世貞松齋米一馬が著した花伝書『正風切紙傅授書』の華包を基に明治44年(1911)に六世貞松齋米一馬(芦田春壽)が、各花、行事、また、贈答用にそれぞれ紙の折り方色彩を定め完成させられたものです。七世貞陽斎一春(芦田陽子)が、この華包を現代の生活の中に取り入れ、新しい日本の美の花飾りとして普及に努めています。

 


華包とは

華包の活用例

「華包」は、和紙に包んだ草木を贈答とする文化を今日世界へ再提案し、「華包」を花器と見立て四季の草木をか生かすものです。季節の草木に合わせ、『華包』の伝書に基づき、花器となる和紙の色や折り方を提案します。現代の生活空間を華やかにする花飾りとして、また、大切な人へ送る贈答品として最適です。

室内の花飾りとしての「華包」
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玄関を彩る花飾りとして
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テーブルを彩る花飾りとして
贈答品としての「華包」

 

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モデル「TokyoRockets]さんと華包

「遠州」の特徴③-薬研配り・くさび撓め

薬研配り

遠州では、「薬研配り(やけんくばり)」という花留めを用いるところに大きな特徴があります。
この薬研配りは薬草を砕いて粉にする道具(これを薬という)にヒントを得て考案されたといわれます。
遠州の生花では、花材が配り(花留め)にしっかり留まっていることが最も大切な要件とされます。足元がしっかり留まってなければ、遠州特有のゆたかな曲線をあらわすことができないからです。

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くさび撓め

くさび撓めは、遠州の代表的な技のひとつであり、最も多用される技です。
のこぎりで切り目を入れたところに、別の枝から切り出した「くさび」をはめこみ、曲線をだします。

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「くさび撓め」の手法

「遠州」の特徴②-変格花矩・曲いけ

変格花矩の花体

変格花体は、花体を構成する役枝の1つ以上が、円相の外に流れ出しているものです。それを「流し」と呼びます。 この流しと役枝との関係から、変格花矩による花体の種類が生じます。それは次のような7種類です。

  1. 真流し(内)
  2. 真流し(外)
  3. 真添え流し
  4. 肩流し
  5. 内胴流し(内流し)
  6. 行流し
  7. 留流し

これら7種類の花体から、なお変化をあらわした花形に、次のような花形があります。

  1. 破格花体
  2. 曲いけ

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曲いけのいろいろ

曲いけというのは、役枝の曲が特殊な趣向を見せて流される花体で、「富士流し」「真結び」「行結び」「観世流し(立観世、横観世)」「行巻き出し流し」「留巻き出し流し」など様々な種類があります。 また、「二重撓め真」「三重撓め真」のように、真が二重にも3重にも曲を描いて豊かに立ち上る花体も曲いけにはいります。 このほか、真流しの変化である、「谷渡り」「谷越え」「水くぐり」などもあります。 曲いけは、遠州生花の特徴をもっともよくあらわす花形として、その流麗な線の美しさと作意の秀抜さが、古くから愛好されてきました。

左:富士流し/中:真流し 結び柳/右:外胴流し

「遠州」の特徴①-総論

遠州正風の花形と特徴

遠州の生花(古典生花)は、円相と、天・地・人の理想をもとに「曲・質・時」の内容をととのえて、自然の理想美を求めてきました。

正風遠州流の生花、正しくいうと、遠州流正風挿花、又は遠州流挿花正風体の基本は「正風の花のかたちはなべてみな一円相に納るるなりけり」という歌にも示されているように、「一円相」の理念によって形づくられています。

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松と桜の三重いけ

円相というのは、万物のもとや、はじめを意味する「本体」のことであって、角に対する丸という意味だけの円ではありません。「不円不方(円ならず方ならず)」といわれるように丸や角(方)を超えたものとして認識されます。ちょうどそれは、花卉草木に置く白露のようなもので、それ自身は無色透明ですが、花卉草木に宿ったときにはじめてそのものの色に染められるのです。この白露のように虚空そのものでありながら、いっさいのもとになるのが「本体」なのです。またそれは、存在するもの皆包むものとして「大有」ともいわれます。清浄透明の真如一乗の世界が、遠州流の円相の理念の根源をなしているのです。

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水仙一色

上記画像は「水仙三ヶ条」といい、季節の移ろいとともに、自然の水仙の姿が変化するのに合わせて花もいける。曲線を生かした理想の姿を描き出した。花器は香炉形。

 

いっさいの形を超えた「空」の円相は輪廻や循環などを契機にして「一円相」に関連していきます。つまりそれは、宇宙的リズムとしてはたらき、春から夏、夏から秋、秋から冬、そしてまた冬から春とひとめぐりします。ここではじめて「一」という形が出てきます。「空」から「一」へすすみ、「無」の円相から「一」の円相に発展するのです。

「円相」は「空」の円相の場から天地自然のリズムにを受け継ぎ、それを花の形おいて表現する場でもあります。

正風遠州流の生花の本質を形づくる一円相の理念は、単に仏教にみられるばかりでなく、西洋哲学や中国の易経・儒教思想の中にも流れている考え方です。たとえば易経では、「元享利貞」ということばがあります。これは、春夏秋冬の順序で時間がたえずぐるぐるまわって元にもどり、たえず円相を描くということを意味します。これをみてもわかるように、すべて自然の摂理か発した考え方で、非常に普遍的な発想でもあるわけです。

この一円相の考え方は、室町時代ころからいろいろな芸道に深く入り込んでいますが、その頃起こったいけばなもその例外ではなく、立花などにもみられるように、早くから円相に基づいた造型がくりひろげられてきたのです。けれども遠州の花道において、特にこの考え方が強くおし出され、初世米一馬がこれを完成したといえるでしょう。さらに先代の六世米一馬が集大成にこれをまとめたのです。

初世貞松斎米一馬の挿花図(江戸時代文化文政期ころ)

遠州では、生花を「しょうか」と呼び、天の枝を「真」、人の枝を「行」、地の枝を「留」と名づけている。花体(花型)はこの真、行、留を骨子にして形づくられるが、さらに必要な枝が加わって、役枝の数、つまり「段矩」が発展、いろいろな花体が展開される。

真(天)、行(人)、留(地)の三枝に真添(日)肩(月)内胴(星)、小隅(辰)の四枝を加えた七本の役枝による構成を七段の花体と言い、さらに外胴(乾)、留真(坤)の二枝を加えた九本の役枝による構成を九段の花体と言う。遠州では、この七段と九段の花体を基本花型として、花型修得の第一課にすえている。

なお、真(天)と留(地)だけで溝成される花が二段の花体、真(天)、行(人)、留(地)の三本だけで構成される花が三段の花体、真、行、留に真添(日)と肩(月)を加えて構成される花が五段の花体である。段拒はさらに十一段、十三段、十五段のように発展する。

役枝はすべて花器(寸度)の寸法の二倍を直径とする円(円相)を基準にしてきめられる。寸度の寸法の二倍を直径とする円を花器の上に想定したとき、真は弧を描いて立ち伸び、先端が円を突き抜ける。真添と肩はそれぞれ真に沿って前と後ろに働く。行は真の湾曲する側の前隅へ、留は行とは反対側の前隅に振り出されて、それぞれ円内におさまる。小隅は行の側の後ろ、内胴は留の側の後ろ隅に振り込まれて、それぞれ円内におさまる。

生花の花体は、流し枝の数や形態上の変化によって真、行、草の三態に分けられる。真の花体は正格花矩とも言い、真を除くすべての花枝が円の内におさまる形を言う。行の花体は変格花矩とも言い、真流し、真添流し、肩流し、内胴流し、行流し、留流しなどのように、真を除く役枝の一つが曲を描いて円の外にはみ出す形を言う。草の花体は破格花矩とも言い、複数の役枝が円外にはみ出して働く形を言う。補天格、助他格、富士流し、観世流しなどの曲いけや掛けいけ、釣りいけなども草の花体となる。

また、本勝手(右勝手)、右の花と逆勝手(左勝手)、左の花の別があり、豊かな曲線美による流麗で派手やかな花風が、遠州の生花を著しく待徴づける。

 
正格花矩の花体(模式図)
左:二段の花体(陰陽生け)
中:三段の花体(花体の三大)
右:九段の花体

━━━読み方━━━
真(天)─しん  行(人)─ぎょう  留(地)─とめ
真添(日)─しんぞえ(じつ) 肩(月)─かた(げつ) 
内胴(星)─うちどう(せい)  小隅(辰)─こすみ(しん) 
外胴(乾)─そとどう(けん)  留真(坤)─とめしん(こん) 
寸度─ずんど  正格花矩─せいかくかく 変格花矩─へんかくかく
破格花矩─はかくかく 補天格─ほてんかく
助他格─じょたかく 観世流し─かんぜながし
段矩─だんく

「遠州」の歴代宗家

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流祖 宗甫小堀遠州公

宗甫小堀遠州公は、茶人や造園家としてその名を残しています。しかし、単にそればかりではなく、文化万般に深い関心を示し、芸術、思想、政治など多方面にわたってその才能を発揮した人物です。茶の湯を古田織部に、和歌を冷泉為頼と木下長嘯に、書道を松花堂昭乗に学ぶなど、それぞれの道に通じた多彩な風流人でした。

特に、茶の湯においては、のちに茶道遠州流の祖と仰がれるように、その道を極め、徳川三代将軍家光公の指南役という名目で江戸城に迎えられています。その茶の風は、利休の佗茶より華美なところに特徴があり、当然、茶花においても遠州流の生花の特徴として伝えられる、華麗な要素をとり入れていたと思われます。「きれいさび」といわれたこの遠州公の芸術性をいけばなに生かし、その思想と美の心を現代に伝えているのが遠州の花道なのです。宗甫小堀遠州公を流祖と仰ぐ所以がここにあります。

初世 貞松斎一馬

初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州公より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名のったことで遠州流中興の祖とされ、「遠州」の始祖となったのです。

初世貞松斎米一馬が発展させた正風挿花は、花伝書『遠州流挿花独稽古』に以下のように記されています。

およそ、いけばなといへること、座上のかざり、花をいける本にして、さながら山野に生たる中にも面白みを工夫し、風情をつけて、詠深くいけるものから、いけばなという

正風は、いけ花の本情を忘れず、失はずして、しかもすがたに面白みをつけて、風情見所あるようにいけるを旨とする

その創意工夫にみちた芸風をうかがい知ることができます。

歴代の宗家(初世以降)

二世 貞松斎米一馬

本名・米沢貞太郎。初世の実子で、文政5年(1822)に若くして他界しました。そのほかの伝記は不明です。

三世 貞松斎米一馬

本名・園田正寛。文政9年(1812)江戸に生まれました。花道の師は初世米一馬で、明治3年(1870)、二世の死後長らく空位にあった宗家を継ぎ、以後明治29年(1896)に85歳で他界するまで、宗家として遠州の発展につくしました。

四世 貞松斎米一馬

本名・山岡林平。文政11年(1828)土佐藩士として生まれました。明治30年(1897)に宗家の座を継ぎましたが、わずか3年後の同33年(1900)に73歳で没しました。幕末から維新の動乱期に花道一筋に生きた人です。

五世 貞松斎米一馬

本名・園田清吉。三世の実子として、安政元年(1854)に江戸に生まれました。三世他界のときはまだ若輩であったため、宗家継承を辞退、四世死後、大正4年(1915)に宗家を継ぎますが、7年後の大正12年(1923)、関東大震災に遭遇、69歳で不慮の死をとげてしまいます。

六世 貞松斎米一馬

本名・芦田春寿。明治11年(1878)8月16日に現在の群馬県前橋市で医師桜井伝三の三男として生まれますが、母親は身体が弱く病床にありがちだったため、東京日暮里の祖父母のもとで育てられました。祖父宅の近くには初世貞松斎米一馬の菩提寺である径王寺があり、幼年のころよくその境内の華神塔のまわりで遊んだとのことでした。
六世がいけばなの道に入ったのは、幼年期に病弱であった春寿が、何年かののち群馬県伊香保に脚気療養に出かけ、保養のかたわら初世の孫弟子にあたる二世貞草斎一寿、貞照斎一果、貞泉斎一得らから正風の挿花の手ほどきを受けたことが直接の契機でした。以後、遠州流花道を志すことになったのです。
そして、明治29年(1896)1月、晟照斎一寿を号することを許され、さらに同年の秋には、土佐の貞春斎一英の四世宗家継承にともない、その前号「一英」を流内の人々の希望を受けて襲名することになりました。
明治31年(1898)には、京都訪問を果しましたが、途中病に倒れ、その後しばらく葉山の長者園で静養することになります。その間、東京小石川の四世宅を訪ね、花道について会話を重ねたといいますが、これがもとで 初世米一馬などの歌を集めた『遠州流挿花前百首』『遠州流挿花後百首』を編しています。

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六世貞松斎米一馬筆『遠州流挿花三体之巻』『華包』『遠州流挿花前百首』『遠州流挿花後百首』

明治33年(1900)、結婚により元禄以前にはじまって今日まで代を重ねた、洛中の名家芦田家に入籍します。この結婚による心身の安定が、のちに流の内外における数々の業績につながり、宗家継承の端緒を開くことになったのです。
大正13年(1924)、前年の関東大震災で急逝した五世貞松斎の意思を継ぎ、全国門人の擁立によって宗家の座を継承しました。爾来、昭和41年(1966)2月、89歳で他界するまで、40数年間にわたって宗家として遠州の発展に努めたのです。
六世はまた、当時排他的な傾向の強かった諸流派の協調を説き、「京都華道連合」を結成し、京都においてはじめて諸流派の合同華展を開催しました。

正風挿花の研究については、明治41年(1908)に『華包』と『遠州流挿花三体之巻』などの著書をあらわし、造詣の深さを世に示しました。
そのほか、京都市との共催で毎年行われる「華道京展」の運営委員を長く勤めるなど、流の内外にわたって活動し、花道の発展に力をつくしたのです。

「遠州」の歴史

小堀遠州の芸風を今に伝える

流祖・小掘遠州は、茶の湯を古田織部に学びました。のちに茶道遠州流の祖と仰がれ、徳川三代将軍・家光の師範という名目で江戸城に迎えられています。もちろん、利休の佗茶よりも華美な茶の湯がその風だったといえましょう。
小堀遠州は、和歌や書道にも通じ、造営奉行としての建築と庭造りでも有名ですが、花も茶花としては華麗なものをいれていたと思われます。この小堀遠州の思想と美の心をいけばなによって伝えているのが「遠州正風」の華道なのです。

江戸に流行する

この遠州の花の思想と花姿は、春秋軒一葉(明和年間)によって初期の内容が整えられました。さらに初世貞松斎米一馬(寛政年間)の出現により、正風遠州流として完成されます。
当時の公家・武家はもとより、一般の江戸庶民にうけいれられ、大いに流行しました。その様子は当時人気を博していた浮世絵の流行とちょうど軌を一にしていました。このことは、『嬉遊笑覧』という書物に、「江戸に近頃専ら行わる遠州流、石州流、宏道流などは何れといえども大方は遠州流と異らず」と書かれていることでもわかりますが、このように、江戸と関東を中心に遠州の花が全国にひろがったのです。文政年間には花配りの改良によって曲線美がますます強調されることになりました。

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『正風挿花岸松』『古今切紙口傅』『挿花千歳松』などの伝書

初世一馬の業績

豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花を両親のようにして生まれた庶民の花で、複雑になった立華の役枝を筒素化するとともに、抛入花に格をあたえる形でそれは成立します。天、地、人の役枝を構成の基準にしたシンプルなスタイルの花ですが、天、地、人は同時に人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。

この文字どおり花道と呼ぶにふさわしい生花の先覚者が、小掘遠州の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名乗ったことで遠州流中興の祖とされ、現在の「遠州正風」の始祖となったのです。

岸松斎高森一貞に師事した初世米一馬は、一貞師と協力研鑽して流祖の遺教遺訓を守り、昼夜をわかたず寝食を忘れて草木の強弱と値物の保養を研究し、ついに正気の発源する風姿の高雅な正風挿花の理念と規矩を大成します。これが遠州流正風挿花で、人呼んで正風遠州流といいます。

一馬は世の青少年の思想を善導し、一瓶挿花の枝をもって各自天稟の芸術的真心を涵養、向上させるために東奔西走し、住居を転々とすること36度に及びました。「六六墅人」と号したのはこれにちなむものです。一馬はまた、焦門の流れをくむ俳句をよくし、二世楼川を名のり、書家としては若くして渓竜、老いて乾竜と号しています。

初世は数多くの伝書や挿花図を、すでに江戸の文化文政期に出版されたり、自筆本として遺されています。『正風挿花墨江巻』をはじめとする秘伝書類は、当時にあっては他流にも大きな影響をおよぼしたといわれていますが、それから150年以上も隔った今日においても、いけばなの本質を見つめるために、ますます必要なものという感を深くしています。その意味は、正風遠州流の生花は、花形が完成した時に、すでに自然を超えた抽象的な花として、また精神性に富んだ花として高い評価を受けたわけですが、現代の感覚を通して見た場合でも、その評価は何ら変わるものではありません。日本のいけばなの歴史を通じて、様々な変遷や変革がありましたが、初世の伝書は、いつの時代にも即応するばかりでなく、つねに時代の先端を行くような新しさを含んでいるのではないでしょうか。

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『挿花松之翠』『挿花衣之香』などの正風遠州流の伝書

The floral art of Japan

いわゆる「お雇い外国人」として明治政府が招聘した建築家のひとりにイギリス人のジョサイア・コンドルがいます。コンドルは、工部大学校の建築学教授として、東京駅を設計した辰野金吾や京都国立博物館を設計した片山東熊などを育て、明治16年(1883)には「鹿鳴館」を建築した人物です。
ジョサイア・コンドルは明治28年(1891)、自身の著書『the Flowersl  of Japan And The Art of Floral Arrangement(邦訳『美しい日本のいけばな』)』において「いけばな」を紹介しています。
外国人たちが、日本のいけばなに強い関心を持ったのは、華麗で曲の強い遠州流の花形に対してでした。
当時、日本から海外へと流出をした浮世絵版画は、のちに西欧印象派の画家たちへ影響を与えます。遠州流の生花は、これら流出した浮世絵を通じて西欧のフラワーアレンジメントに影響を与えることになります。

浮世絵版画に描かれた日本のいけばなは、ほとんど遠州流の生花であって、美しい曲線によって構成されるライン・アレンジメントの形は、フラワーアレンジメントに新しい線による構成の美しさを表出する方法を教えることともなったのです。

こうした外国人による評価は、生花の持つ芸術性を、形から始めてその精神性をも含めて、日本人たちに再確認をさせる契機を与えることにもなりました。

明治23年(1890)に刊行された東洲勝月の『教育女礼式』という錦絵に描かれているいけばなは、遠州流の生花でした。また、明治27年(1894)に刊行された『明治節用大全』には、「古今遊芸指南」の第3章に「挿花」とあり、その沿革が述べられています。その挿花の指導法は遠州流のものです。
さらに、明治27年(1894)に刊行された『風俗画報』所載の挿花の紹介は、花之本宗寿によるものであり、これもまた<遠州流の師匠の手に成るものでした。

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コンドル『THE FLORAL ART OF JAPAN』1899年

四百有余年の伝統を生かす現代

遠州は代を数えること十四代、七代の貞松斎米一馬をはさんで今まで四百有余年の年月をつみ重ねています。始祖貞松斎の遣訓に、「ことは古人にならいて、技は当時の風体にすべし」という言葉があります。この教えをそれぞれ守りつづけて今日まで流の発展につくしてきたのです。その間、明治維新や第二次世界大戦後の混乱した人心の中で、花を通じて世相の安定に専念し、日々変化する科学文明に対処しながら、生活の中にとけこむいけばなの研究にはげんできたのです。曲線の美しい生花はもとより、生立華、盛花、投入花、現代花、新生花、正風花、ファッションいけばなポピンズ、さらに二十一世紀の花、現代花21など、新しい時代の精神をとりいれて、それぞれの進歩のための研究をつづけているのです。

年表

日本の「いけばな」と「遠州」

草木の生と死

花を愛する心は、世界のどこの人々にも共通しています。野辺に咲く名も知れない草木にいい知れない心のやすらぎを感じたり、あるときはそれを折りとり、持ちかえって室内に飾ったりします。花や草木に対して私たちがこのような愛着心をいだくのは、それらが単に美しいからだけではありません。美しいことももちろん関係していますが、それが人間と同じような生命を持っていて、季節という設定の中で盛衰、生死をくりかえすことが切実に共感されるから、花の美しさ、草木のみずみずしさが、より強く私たちをひきつけるのです。

いけばなが、はじめ「供花」という形で人間生活と結びついたのも、この生死に対する共感が根底にあったからです。人間にとってさけることのできない死をとおして、あるいはすくなくとも死との関連によって私たちは神仏を具体的に認識します。その神仏と死を語るとき、あるいは死との関連で生を語るとき、同じような生死の条理におかれている自然の草木を媒介にしたほうが、私たち人間と神仏とのコミュニケーションが容易だったのです。これが「供花」です。生も死もよくわきまえている花(草木)を供えたり献じたりすることによって、私たち人間は神仏と対話をこころみてきたのです。

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『鳥獣人物戯画』に描かれる供花の様子

『鳥獣人物戯画』は、平安時代後期に成立したとされる絵巻物です。桃底の花瓶に蓮華を立て、僧形の猿が常緑樹の枝を手に、芭蕉の光背を持つ蛙の仏に供養している「供花」の様子が描かれています。

座敷飾りの花

このように、いけばなの発生はまず宗教的なものから出発しましたが、やがて室町時代にはいり、供花は座敷飾りの花としてようやく宗教から脱却することになったのです。それは、寝殿造りというそれまでの建築様式が武家造りを経て書院造りに変化したことにも起因していました。書院造りというのは一隅に書院、押板(後世の床の間)、棚をもうけた座敷のことで、儀式や賓客との応接に使用しました。この押板の上に、いけばなの最初の様式といわれる立花が飾られたのです。

この室町時代は、花をはじめ能、庭園、茶の湯などの、いわゆる日本的な芸能がさかんに興った時代です。町衆といわれた商人たちも、武家の生活を見習ってこのような芸能をさかんにたしなみました。能阿弥、立阿弥、珠光といった芸術家の輩出したのもこの時代です。

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「生花彩色花形図」(貞松斎米一馬選『挿花衣之香』享和元年(1801)より)

簡素と豪華

一方、座敷の書院や棚にも抛入花、砂物などという花が飾られ、特に抛人花は安土桃山時代にはいっ茶の湯の花にとりいれられて簡素な美しさを発揮しました。一般に「茶花」といわれている花がこれです。立花が次第に豪華に発展し、後に「立華」と呼ばれる華麗な様式を確立したことから、簡素と豪華という対照的な二つの流れが、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてのいけばなを特徴づけたことが知られるのです。

生花の誕生

豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花の影響を受け、当時の町人文化を反映して生まれた新しい様式のいけばなです。豪華で複雑な立華の役枝を簡略化し、加えて簡素な抛入花に格をあたえる形で、その様式が完成されました。
庶民の芸術といわれるように、この生花の花形は儒教の理念に基づく「天、地、人」という役枝を構成の基準にした非常にシンプルなスタイルなものでした。それだけにこの「天、地、人」は美を表す基準であったと同時に、人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。
生花に対してこのような考え方が行われたことにより、いけばなは花道と呼ぶにふさわしい芸域に達したと言えましょう。

この生花の先覚者が、宗甫小掘遠州公の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

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春秋軒一葉「水仙の生花」(百花園主人編『瓶花群載』明和7年(1770)より)

『瓶花群載』は当時の各流派の代表的ないけばな図が載せられていて、いわば、当時の作品集でもありました。すでに明和3年の「当世垣のぞき」には、遠州流の名前があげられています。