「遠州」の歴史

小堀遠州の芸風を今に伝える

流祖・小掘遠州は、茶の湯を古田織部に学びました。のちに茶道遠州流の祖と仰がれ、徳川三代将軍・家光の師範という名目で江戸城に迎えられています。もちろん、利休の佗茶よりも華美な茶の湯がその風だったといえましょう。
小堀遠州は、和歌や書道にも通じ、造営奉行としての建築と庭造りでも有名ですが、花も茶花としては華麗なものをいれていたと思われます。この小堀遠州の思想と美の心をいけばなによって伝えているのが「遠州正風」の華道なのです。

江戸に流行する

この遠州の花の思想と花姿は、春秋軒一葉(明和年間)によって初期の内容が整えられました。さらに初世貞松斎米一馬(寛政年間)の出現により、正風遠州流として完成されます。
当時の公家・武家はもとより、一般の江戸庶民にうけいれられ、大いに流行しました。その様子は当時人気を博していた浮世絵の流行とちょうど軌を一にしていました。このことは、『嬉遊笑覧』という書物に、「江戸に近頃専ら行わる遠州流、石州流、宏道流などは何れといえども大方は遠州流と異らず」と書かれていることでもわかりますが、このように、江戸と関東を中心に遠州の花が全国にひろがったのです。文政年間には花配りの改良によって曲線美がますます強調されることになりました。

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『正風挿花岸松』『古今切紙口傅』『挿花千歳松』などの伝書

初世一馬の業績

豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花を両親のようにして生まれた庶民の花で、複雑になった立華の役枝を筒素化するとともに、抛入花に格をあたえる形でそれは成立します。天、地、人の役枝を構成の基準にしたシンプルなスタイルの花ですが、天、地、人は同時に人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。

この文字どおり花道と呼ぶにふさわしい生花の先覚者が、小掘遠州の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名乗ったことで遠州流中興の祖とされ、現在の「遠州正風」の始祖となったのです。

岸松斎高森一貞に師事した初世米一馬は、一貞師と協力研鑽して流祖の遺教遺訓を守り、昼夜をわかたず寝食を忘れて草木の強弱と値物の保養を研究し、ついに正気の発源する風姿の高雅な正風挿花の理念と規矩を大成します。これが遠州流正風挿花で、人呼んで正風遠州流といいます。

一馬は世の青少年の思想を善導し、一瓶挿花の枝をもって各自天稟の芸術的真心を涵養、向上させるために東奔西走し、住居を転々とすること36度に及びました。「六六墅人」と号したのはこれにちなむものです。一馬はまた、焦門の流れをくむ俳句をよくし、二世楼川を名のり、書家としては若くして渓竜、老いて乾竜と号しています。

初世は数多くの伝書や挿花図を、すでに江戸の文化文政期に出版されたり、自筆本として遺されています。『正風挿花墨江巻』をはじめとする秘伝書類は、当時にあっては他流にも大きな影響をおよぼしたといわれていますが、それから150年以上も隔った今日においても、いけばなの本質を見つめるために、ますます必要なものという感を深くしています。その意味は、正風遠州流の生花は、花形が完成した時に、すでに自然を超えた抽象的な花として、また精神性に富んだ花として高い評価を受けたわけですが、現代の感覚を通して見た場合でも、その評価は何ら変わるものではありません。日本のいけばなの歴史を通じて、様々な変遷や変革がありましたが、初世の伝書は、いつの時代にも即応するばかりでなく、つねに時代の先端を行くような新しさを含んでいるのではないでしょうか。

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『挿花松之翠』『挿花衣之香』などの正風遠州流の伝書

The floral art of Japan

いわゆる「お雇い外国人」として明治政府が招聘した建築家のひとりにイギリス人のジョサイア・コンドルがいます。コンドルは、工部大学校の建築学教授として、東京駅を設計した辰野金吾や京都国立博物館を設計した片山東熊などを育て、明治16年(1883)には「鹿鳴館」を建築した人物です。
ジョサイア・コンドルは明治28年(1891)、自身の著書『the Flowersl  of Japan And The Art of Floral Arrangement(邦訳『美しい日本のいけばな』)』において「いけばな」を紹介しています。
外国人たちが、日本のいけばなに強い関心を持ったのは、華麗で曲の強い遠州流の花形に対してでした。
当時、日本から海外へと流出をした浮世絵版画は、のちに西欧印象派の画家たちへ影響を与えます。遠州流の生花は、これら流出した浮世絵を通じて西欧のフラワーアレンジメントに影響を与えることになります。

浮世絵版画に描かれた日本のいけばなは、ほとんど遠州流の生花であって、美しい曲線によって構成されるライン・アレンジメントの形は、フラワーアレンジメントに新しい線による構成の美しさを表出する方法を教えることともなったのです。

こうした外国人による評価は、生花の持つ芸術性を、形から始めてその精神性をも含めて、日本人たちに再確認をさせる契機を与えることにもなりました。

明治23年(1890)に刊行された東洲勝月の『教育女礼式』という錦絵に描かれているいけばなは、遠州流の生花でした。また、明治27年(1894)に刊行された『明治節用大全』には、「古今遊芸指南」の第3章に「挿花」とあり、その沿革が述べられています。その挿花の指導法は遠州流のものです。
さらに、明治27年(1894)に刊行された『風俗画報』所載の挿花の紹介は、花之本宗寿によるものであり、これもまた<遠州流の師匠の手に成るものでした。

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コンドル『THE FLORAL ART OF JAPAN』1899年

四百有余年の伝統を生かす現代

遠州は代を数えること十四代、七代の貞松斎米一馬をはさんで今まで四百有余年の年月をつみ重ねています。始祖貞松斎の遣訓に、「ことは古人にならいて、技は当時の風体にすべし」という言葉があります。この教えをそれぞれ守りつづけて今日まで流の発展につくしてきたのです。その間、明治維新や第二次世界大戦後の混乱した人心の中で、花を通じて世相の安定に専念し、日々変化する科学文明に対処しながら、生活の中にとけこむいけばなの研究にはげんできたのです。曲線の美しい生花はもとより、生立華、盛花、投入花、現代花、新生花、正風花、ファッションいけばなポピンズ、さらに二十一世紀の花、現代花21など、新しい時代の精神をとりいれて、それぞれの進歩のための研究をつづけているのです。

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